人間はいつまで手で尻を拭くのだろうか。
今日朝の日課である健康的な排便をしていて思ったことだ。人は一体いつまで手を使って尻を拭かないといけないのだろうか。
もちろん手と尻の間には紙があるのだが、聞くところによると大腸菌は紙など容易にすり抜けて手まで到達してしまうらしい。
あなたはこれをどう感じるだろうか。例えば手にモロに運がついた場合は発狂では済まない。これがもし動物の運だった場合はまぁしょうがないかぁぐらいで洗って済ますのだろうが人糞の場合は別である。
あぁああああ!!!である。
手をちょん切って付け替えたくなる。洗っても洗っても綺麗になった気がしない。
精神は汚染され、アイデンティティは崩壊する。僕が僕である理由を見失ってしまうのだ。手に運がついた。ただそれだけで。
それぐらい汚染された気がするのは僕だけだろうか。いや、そんなはずはない。
人間の運に対する感情は尋常ではないはずだ。
つまり人間は、毎日自我崩壊のリスクと戦いながら尻を拭くのである。
思えば食器は食洗機で洗い、部屋は掃除機でブーンぐらいまで科学は進んでおり、手を汚さずに物を綺麗にする技術は進んでいるはずだ。
にも関わらずトイレに関しての進化といえば、草で拭いていたのが紙に進化したぐらい。この前野糞愛好家の人が草で尻を拭くって話をどこかで見たけど、あれほど不愉快な記事はなかった。
尻を拭くに当たって、ウォシュレットという言い訳は通用しない。あれはあくまで補助であって仕上げは手だ。手なのだ。ウォシュレットでは運は落ちきらないのだ。手が必須なのだ。
紙をただ重ねた頼りないフニャフニャの物体を隔てた手なのだ。頼りない紙をいくら重ねたところで、頼りないものは頼りないのだ。
頼りないものを頼りないまま、頼りないものに頼り、そして僕は尻を拭くのだ。毎日毎日、頼りない紙に頼り続ける毎日なのだ。頼りない紙に自我を任せる。これほどのリスクを毎日負う必要は、21世紀の今もまだ失くせないのだろうか?
思えば人体を洗うと言う行為を考えた時に、人間は未だ手から離れられない。離れることができないのである。
話はわき道にそれるが、なぜ人間は排泄物をこれほどまでに嫌うのだろうか。
食べ物を見ると美味しそう。
だがそれが人体を通過すると文字通りクソだ。クソとはつまりゴミ以下の存在である。
この感覚は一体なぜだろうか。垢なんかもそうだ。
元々人体についていたものにも関わらず、それが剥がれ落ち、改めて肌に着くととても嫌な気持ちになる。
一説によると、それらは人間にとっては死骸に見えるらしい。
だから畏怖感を覚え、体に寄せ付けたくないのだ。これは一体なんの話だ?
垢ごときでは流石に僕だって自我を保てる。だが運は違う。
こんな話で1200文字を書ききってしまいましたがどうでしたか?
という事で、そろそろTOTOさん手を使わないで尻を綺麗にする何か作ってもらえないでしょうか?そろそろ頼りない紙に頼るしかない僕から卒業したいと思っております。何卒。